ブックタイトルYABO2015_02
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YABO2015_02
野望という言葉の意味を辞書で引くと、「身の程を知らない大それた野心」と出てくる。他人からすると、人様の野望など、バカげたものに映るかもしれない。「そんなことしてどうするの」「お前には無理だ」と言われることだってある。壁を乗り越えられないものは馬鹿にされ、乗り越えたものは称賛を受ける。野望とは実に表裏一体の結果を持ち合わせたものであることが分かる。しかしここで一つ言えるのは野望を実現したものは皆、困難に遭遇しても野望を抱き続けたということだ。自分の能力をいくら否定されても、成功したものはそこで諦めず必ず挑戦し続けている。これは、野望に挑んだ一人の少女の物語である。とき子が三つ編みにのめりこむようになったのは中学一年生の春、入部希望で訪れたテニス部へ見学に行った時からだった。テニス部員の一人で、二つ結びで三つ編みのお下げ髪を結っていた先輩がいた。その先輩はアメリカと日本のハーフで、ブロンドの綺麗な色の髪をしていた。その胸までのびた髪を三つ編みにし、黒いゴムで三つ編みの束をきゅっと結んでいた。とき子はその姿に陶酔感のようなものを感じた。とき子は小学生の間はショートカットだったが、三つ編みを結うために中学校に入ってから髪を伸ばした。中学二年生になりやっと胸の辺りまで髪が伸びたとき子は、胸をドキドキさせながら三つ編みを結った。「はぁ」と、とき子はため息をついた。あの先輩のようなきれいな三つ編みが、自分の髪ではできなかったのだ。とき子の髪はコシのある綺麗な髪質をしていたのだが、逆にその髪質は三つ編みをしにくくしてしまっていたのだった。三つ編みをしてもすぐに形が崩れてきてしまうのだ。「優香さん、私の髪、三つ編みにしてもすぐほどけてきてしまうの」とき子は、家の近くの美容室に行き、美容師さんへ三つ編みのことを相談した。美容師の優香は、とき子より一回り年上だった。「とき子ちゃん、そういう時はワックスを少し髪になじませてから結ぶと形が崩れにくくなるよ」と言い、その通りにとき子の髪にワックスを少しなじませてから三つ編みに結った。「わぁ……」髪色は違っていたがテニス部の先輩と同じような三つ編みがそこにはあった。「優香さんありがとう!」とき子は、はちきれんばかりの笑顔を優香に見せた。中学一年生の時に芽生えたとき子の三つ編みへの情熱は高校生になってからも一向に冷める気配がなかった。とき子は学校へ『三つ編み部』創設の申請を出した。しかし却下されてしまった。「なんで、なんで皆は三つ編みの良さを分かってくれないの……」放課後夕日が差し込む教室でとき子は一人で机に突っ伏した。とき子は学校の帰り道に通りがかった家電量販店で、あるテレビ番組を目にした。スクラップとして捨てられた針金や鉄を、芸術大学の学生がアート作品として再生させたという内容で、都内でスクラップアートの展覧会が行われている様子が映し出されていた。「そうだわ、私が三つ編みを芸術の域にまで高めればいいのよ。そしたら皆に三つ編みの美しさを分かってもらえる」とき子の三つ編みへの想いはその時、憧憬から野望へと変わった。とき子は進学希望先に美容専門学校ではなく芸術大学を選んだ。三つ編みとアートを融合させた作品を作り、世界に広めたいと考えたからだ。しかし最大の問題が一つあった。とき子は絵が苦手だった。しかしYABO Short Short Story三つ編みアートの野望/徳留弥生これで三つ編みアートへの一歩を踏み出せる!」と小躍りした。一〇日後、受験した芸術大学から合否結果の封筒が届いた。封筒を開けたとき子は、絶句した。「不合格」の三文字がとき子の目に飛び込んできたのだ。どうしても納得のいかなかったとき子は大学に問い合わせ、不合格の理由を聞いた。すると「三つ編みの作品は本当に素晴らしいものだったが、とき子の画力がどうしても大学の基準に見合わなかった」という回答が返ってきた。「私の野望をこんなところでダメにしてたまるか」とき子はそうつぶやいた。同級生が大学へ進学するなか、とき子は一年間の浪人生活を選んだ。芸術大学の予備校へ通い、デッサンの特訓を再び始めた。浪人生の間、とき子は創作意欲を抑えきれず、三つ編みアートを制作しては写真投稿アプリのインスタグラムで自分の作品を投稿するようになった。浪人生活中、とき子は両親に散々小言を言われた。「もともと絵なんて描く子じゃなかったんだから、無理しないで、普通の大学でもいいんじゃないの?」「浪人だってタダでできるんじゃないんだから、来年受からなかったらもう次は無いからね!」とき子にとっては耳に痛い言葉だった。しかしそれでもとき子は一日も欠かさずデッサンの勉強に励んだ。浪人生活が半年を過ぎた頃だった。とき子のもとへ、インスタグラムを通して一通の英語のメッセージが送られてきた。そこにはこう書いてあった。「私はフランスに住むジャンといいます。毎日あなたのインスタグラムの投稿をみている者です。あなたの三つ編みアートは本当に素晴らしいです。今日はその気持ちともう一つあなたへお願いしたいことがありメッセージしました。あなたがもしこんなことに一切興味が無かったらこのメッセージは見過ごして下さって結構です。私が教授を務めるパリにある芸術大学へ来て、私のゼミへ是非入ってください。私があなたを推薦します。私はあなたの三つ編みアートを、あなたと一緒に世界へ広めたいんです……」フランスのジャンという人からのメッセージにはとき子の三つ編みアートへの想いが延々と綴られてあった。とき子はそれを読み目頭が熱くなった。とき子は慣れない英語で返信をした。「I’m so glad to hear! I goFrance soon!!……」とき子は三日後、鞄一つでパリへ飛び立っていった。三つ編みの野望実現のため、芸術大学入試対策を行っている予備校に通い週四回入試に必要な勉強をした。とき子の受験した芸術大学はデッサンと実技試験があった。実技試験は受験生が自由に作品を作ってよいというユニークな試験だった。とき子は実技試験に迷わず三つ編みアートを選んだ。実技試験の当日、作品を作り上げるために受験生に与えられた時間は二時間だった。とき子は作品のために、この日どうしてもブロンドの綺麗な髪を持った人材がほしかった。そこで高校のALTのレイチェルにお願いし、実技試験のモデルとして来てもらった。腰の辺りまでのびたレイチェルのブロンドの髪の毛は、とき子の手により二時間かけて結いあげられ装飾がされていった。レイチェルの髪は三つ編みと編みこみが施され、シニヨン風に結い上げられていた。ブロンドの髪の毛には小さな真珠がまばらに施されていた。受験生の作品を審査しに来た試験官たちは、とき子の作品の前で足を止め、「こんなに芸術的な三つ編み見たことがない」「すごい、まるで頭上に花が咲いているかのようだ」と、三つ編みアートを見て絶賛をした。試験が終わり、とき子は「やったわ!YABO n 221 20YABO n 2